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W.ユージン・スミスの「ロフトの時代」
混沌の実験室から水俣へ。“真実”を立ち上げた写真家の軌跡

「W.ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代」が、2026年6月7日まで東京都写真美術館で開催

内覧会・記者発表会レポート

中央はスミスのいたロフトに集ったひとり、ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンク
中央はスミスのいたロフトに集ったひとり、ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンク

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構成・文・写真:森聖加

20世紀を代表するフォトジャーナリスト、W.ユージン・スミス(1918–1978)。その写真には、現実の奥から立ち上がる“真実”がある。東京都写真美術館ではじまった「W.ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代」は、1957〜71年、彼がニューヨークのロフトで過ごした時期に光を当てる。混沌と創造が渦巻く空間で、スミスはいかに“真実”を掴み直したのか。その核心に迫る試みだ。

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W. ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代
開催美術館:東京都写真美術館
開催期間:2026年3月17日(火)〜6月7日(日)

時代の寵児が集ったロフト――現場にいた写真家

1950〜60年代のニューヨーク・マンハッタン。そこには、工場や倉庫を住居として使うロフト、いまでいう“アーティスト版シェアハウス”が点在していた。家賃は安く、天井は高い。夜中でも音が存分に出せる場所には多くの画家や写真家、ジャズミュージシャン、詩人たちが入り乱れ、語り、眠り、創作を続けていた。この自由で混沌とした空間での営みこそがニューヨークのアートと音楽シーンの層を分厚くした土台となり、いまでは「ロフト時代(loft era)」とも呼ばれている。

その舞台のひとつが、ユージン・スミスが1957年から1971年まで「暮らした」ダウンタウンのロフトだ。括弧をつけたのはそれが違法行為であり、商業施設ゆえに本来は住むことはできなかったからだ。

展示風景。左がユージン・スミス/三木淳《ユージン・スミス》〈マイ・フレンズ、グレートフォトグラファーズ〉より
展示風景。左がユージン・スミス/三木淳《ユージン・スミス》〈マイ・フレンズ、グレートフォトグラファーズ〉より

東京都写真美術館の展覧会「W.ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代」は、スミスのキャリアの中でも特異なこの「ロフトの時代」を軸に、彼の創作がいかに変化したのかをたどるもの。地元アメリカ・カンザス州ウィチタでの活動初期から『ライフ』誌での黄金期、ピッツバーグでの挫折を経て水俣へと向かう、その転機にあったのがロフトでの時間だった。

本展監修者のサム・スティーブンソン氏とアイリーン・美緒子・スミス氏
本展監修者のサム・スティーブンソン氏とアイリーン・美緒子・スミス氏

ウィチタから『ライフ』、ピッツバーグの時間――原点

スミスのキャリアは、写真報道で知られるアメリカの雑誌『ライフ』時代から語られることが多いが、本展ではそれ以前、地元ウィチタで活動を開始したばかりの14歳の写真からはじまる。地元紙『ウィチタ・イーグル』での取材では、記者として向かった先が父の自殺現場ということがあった。その経験は写真家としてのスミスの人生に大きなしこりとなって留まり、人間の痛みや矛盾と向き合う原点になったと、同館学芸員 室井萌々氏は指摘する。

左/《楽園への歩み》〈ファミリー・アンド・フレンズ〉(1946) 
右/《病院建設現場で木材に印をつけるアルベルト・シュバイツァー博士》〈慈悲の人 シュヴァイツァー〉(1954)
左/《楽園への歩み》〈ファミリー・アンド・フレンズ〉(1946) 
右/《病院建設現場で木材に印をつけるアルベルト・シュバイツァー博士》〈慈悲の人 シュヴァイツァー〉(1954)

この延長にあるのが『ライフ』での活動で、第二次世界大戦では特派員として日本の硫黄島や沖縄戦を含む世界各地の前線を取材した。戦後、〈カントリー・ドクター〉(1948)、〈スペインの村〉(1950)、そして〈慈悲の人 シュヴァイツァー〉(1954)へと続いていく。スミスは自身の思い描くイメージをレイアウトからキャプションに至るまで徹底追及した写真家として知られるが、それゆえに編集部と衝突し、1954年に同社を退社。マグナム・フォトに2年間参加し、炭鉱のまちピッツバーグを取材するプロジェクトに取り組む。ここで大きな壁にぶつかった。

〈ピッツバーグ〉シリーズ(1955-56)より。
標識には「LOVE」や「DREAM」など希望に満ちた言葉が並ぶが、現実のまちは……
〈ピッツバーグ〉シリーズ(1955-56)より。
標識には「LOVE」や「DREAM」など希望に満ちた言葉が並ぶが、現実のまちは……

ピッツバーグ市史編纂のための撮影は、当初、3週間の予定が数年に及ぶプロジェクトへと膨らんだ。膨大なネガを残しつつ、スミスは「すべては失敗だった」と友人の写真家、アンセル・アダムスに伝えている。制作の行き詰まりに加え、家庭生活でも問題に直面していた。しかしその写真には、すでに変化の兆しがあった。昼に撮影したシーンさえ夜のように暗く、黒を強調した画面。それは一方で光の美しさを際立たせ、この後の「ロフトの時代」の実験的な取り組みにつながっていく。

ロフトの時代──写真と同時に残した「音」が転機に

〈私の窓から時々見ると…〉シリーズ(1957-59頃)
〈私の窓から時々見ると…〉シリーズ(1957-59頃)

6番街821番地。スミスのロフトは、ミッドタウンとダウンタウンの境界――商業と文化、昼の顔と夜の顔が交差する都市の継ぎ目にあった。本来は他のアーティストが借りていた場所で、スミスはさまざまな問題から逃れるように身を寄せたのだ。はじめ、ロフトの窓から外を眺め、通りをゆく人々など街のようすを撮影していたが、スミスはある日、「建物の内側で」何かが起きていることに気付く。

本展2章ロフト展示の監修者で、スミスのロフトの時代を長年研究してきたサム・スティーブンソン氏は、次のように語る。「ユージン・スミスは写真家ではなくミュージシャンになるべきだったのではと思うときがあります。彼はピッツバーグ・プロジェクトの途中でニューヨークのロフトに移り住みました。ここはジャズミュージシャンたちがクラブでの演奏を終えたのちに集まる伝説の場所でした。窓の外から聞こえてくる音、建物の内側で鳴り響く音――彼はあらゆる音を記録しました。私は20年を費やしニューヨークでの彼の生活を研究しましたが、それを続けられたのも、結局は写真ではなく、音楽の質の高さゆえだったと思います」

左/ホール・オヴァートン『Sonata for Viola &Piano(1960)/Sonata for Cello &Piano(1960)』と
右/セロニアス・モンク『MONK.』のアルバム・ジャケットの写真はロフトで撮影されたもの
左/ホール・オヴァートン『Sonata for Viola &Piano(1960)/Sonata for Cello &Piano(1960)』と
右/セロニアス・モンク『MONK.』のアルバム・ジャケットの写真はロフトで撮影されたもの

残されたのは、4000時間におよぶ録音と4万枚の写真。この第2章では、実際にスミスが撮りためた音源や当時ロフトでスミスが聴いていた音楽が流され、ロフト空間の気分を体感できる仕掛けも。スミスがいかにロフトという「現場」を音、光、沈黙、混沌まで含めて記録したかは、スティーブンソン氏も出演するドキュメンタリー映画『ジャズ・ロフト』に詳しい。同映画は展覧会期間中に上映されるから、こちらも見逃せない。
(上映期間:5月1日[金] 、8日[金] 、16日[土]~17日[日] 、24日[日]、 6月2日[火]~7日[日]うち休映日:6月5日[金]/1Fホールにて)

回顧展「Let Truth Be the Prejudice」。そして水俣へ

もうひとりの本展監修者アイリーン・美緒子・スミス氏が、ニューヨークの拠点でスミスと暮らしたのはロフト時代の最後の1年だった。「すでにミュージシャンは去ったあとでした。暗室でプリントを焼くときも、レイアウトをするときも、いつもロフトには音楽が流れていました。彼は踊りながら作業をしていました。写真を撮るのも、写真を焼くのも、レイアウトの仕方のリズムも、すべて音楽です。彼にとって写真と音楽は、完全に一体のものでした」

第3章展示風景
第3章展示風景

1971年、ロフトではニューヨークのジューイッシュ・ミュージアムでの回顧展のための準備が進められていた。第3章のタイトルは同年に開催された回顧展名の「Let Truth Be the Prejudice」に由来する。直訳すれば、「真実を偏見とせよ」となるが、ここでいう「偏見」は単なる思い込みではなく、人が物事を認識する際に不可避的に持つ“前提”を意味している。スミスが自らの人生と写真観を“ひとつの真実の形”として再構成した展覧会であり、ロフト時代を経て到達したテーマを展示空間そのものに刻み込む挑戦だった。

室井氏はこう説明する。「ジャーナリズムでは客観視が重視されますが、スミスは『写真は客観ではない。視点や偏り、倫理、感情を通してしか真実は現れない』と考えていました。祈りに近い響きを持つタイトルは、避けがたい先入観や偏見がむしろ真実に近づくという逆説を示しています。まずは自分が主観を持っていることを認めるべき、そう語っているのです」

第3章の展示構成は「音楽」そのものを想起させ、リズム感あるレイアウトで楽しませる。東京都写真美術館はスミス作品を2000点以上所蔵し、回顧展の作品がそのまま収められてもいる点も貴重だ。「マスタープリントともいえる、もっともよい状態の作品がご覧いただけます」と室井氏は話した。

ユージン・スミス、アイリーン・美緒子・スミスによる〈水俣〉シリーズ(1971-1975)より
ユージン・スミス、アイリーン・美緒子・スミスによる〈水俣〉シリーズ(1971-1975)より

回顧展を終え、スミスとアイリーン氏が向かったのは日本。水銀によって汚染された海、それにより引き起こされた重大な公害病の現場、熊本県・水俣である。

アイリーン氏は言う。「水俣は元村和彦さんが教えてくれ、私たちは3年間そこに暮らしました。ユージンは『前世、自分はこの地域の人間だったと思う』と言っていて。普通は水俣病と聞けば公害を撮りに行く発想でしょうが、私も日本のふるさとを離れてアメリカで暮らし、いつも日本が恋しくて。二人はふるさとを求めていたのだと思います。ユージンが水俣に注目して最後の作品として撮る中で、多くの日本の写真家もそれぞれの思いで撮っていました。写真家は一匹オオカミのようでいて、本当はつながっている。後世に作品を残したいという気持ちが一体になり、特別なものになったのではないかと思っています」

写真集『MINAMATA』制作の際の草稿などアイリーン・アーカイブの貴重な資料も展示
写真集『MINAMATA』制作の際の草稿などアイリーン・アーカイブの貴重な資料も展示

ロフトの暗がりで響いていた音は、ユージン・スミスの魂を揺さぶり、内側で眠っていた何かを目覚めさせた。写真と音楽が溶け合い、混沌の中から立ち上がる“真実”のかたち。その感覚を抱えたまま向かった水俣。ロフトの時代は、スミスが世界を見つめる新たな眼差しを深め、報道と芸術を融合させる大きな仕事へ導いた時間だった。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
東京都写真美術館|Tokyo Photographic Art Museum
153-0062 東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内
開館時間:10:00〜18:00(木・金曜は~20:00、最終入館時間は閉館の30分前)
休館日:月曜日 (5/4を除く)および5/7(木)

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