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「なかったことにしない」沖縄米軍への抵抗を撮り続けた
離島の平和運動家の写真が伝える記憶

「阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々」が、原爆の図 丸木美術館にて2024年5月6日(月・振) まで開催

展覧会レポート

演習地・十字架の看板を立てて訴える若者 1955年
演習地・十字架の看板を立てて訴える若者 1955年

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文・構成 澁谷政治

1947年、沖縄・伊江島。第二次世界大戦下で沖縄戦の激戦地となり、強制移送されていた慶良間島から帰還した島民は、島の63%が米軍に占領されている状況を目の当たりにする。土地の強制接収、無抵抗の住民への暴行、監禁、拘束など、理不尽な暴挙に抵抗を続ける中、地主代表の一人であった阿波根昌鴻(あはごんしょうこう 1901-2002)は、那覇でカメラを購入し、その歴史を記録し続けた。写真が語る沖縄の離島での惨状、そしてその裏側にあった本来平穏な島の日常を見つめる貴重な写真約350点による、沖縄県外では初の展覧会『阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々』が、2024年2月23日から5月6日まで、埼玉県東松山市にある原爆の図 丸木美術館で開催されている。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々
開催美術館:原爆の図 丸木美術館
開催期間:2024年2月23日(金・祝)〜5月6日(月・振)

沖縄本島・本部(もとぶ)に貧しくも勤勉な両親に育てられた阿波根昌鴻は、経済的にも苦しい中で嘉手納にある県立農学校へと進学した。しかし、わずか2ヶ月後には無理がたたり神経痛を患い大分県の別府で療養することとなる。当時身を寄せていた教会でキリスト教の洗礼を受けるが、ここで出会ったマタイの福音書の箴言「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉は深く阿波根の心に刻まれ、その後の非暴力の抵抗の基礎となっていく。22歳で沖縄本島の北西沖にある伊江島に渡り妻喜代と結婚、息子の昌健も誕生したが、自身の学費捻出のため、中南米のキューバ、ペルーへ単身で出稼ぎに渡った。10年近く稼いだ貯金は、現地で結核となった同郷人に渡してしまい無一文での帰国となるが、出稼ぎの合間ペルーの古本屋で西田天香の著書『懺悔の生活』に出会う。彼が創設した「わびあい、拝み合い」を具現化する京都「一燈園」の共同生活に憧れ、帰国後すぐに西田天香を訪ねている。自給自足でお互いを支え合い学び合う場に感動した阿波根は、デンマークのニコライ・F・S・グルントヴィ(Nikolaj F. S. Grundtvig)が提唱した国民高等学校(フォルケホイスコーレ)を模した静岡県の沼津興農学園で、キリスト教主義に基づくデンマーク農場教育を学んだ後、31歳で伊江島へ戻った。真謝(まじゃ)地区の原野を買い取り植林を行い、デンマーク式農法の学校建設を夢見て豚舎や牛馬舎を整備していく。自転車で島を巡りながら紙芝居を見せたり禁酒を説いたりと、島民から変人扱いを受けながらも、自信と希望を持って理想とする生活基盤の準備を着々と進めていた。特に息子の昌健が後継・共働者となっていくことを頼もしく見守っていた阿波根夫妻の幸せな毎日は、忍び寄る戦争により打ち砕かれていく。伊江島も戦地となりガマ(自然壕)での避難生活を強いられる中、中学教師になったばかりの19歳の一人息子昌健も招集され、両親のガマでの祈り虚しく浦添で戦死している。

陳情小屋前の阿波根昌鴻 1955年
陳情小屋前の阿波根昌鴻 1955年

展示会場入口は、その後の伊江島の出来事「銃剣とブルドーザー」、米軍武装兵による土地強奪後の写真群から始まる。1953年、当時沖縄を統治していた米民政府は、島民に対して、土地調査の日当支払い手続きと称し、英語の書類に署名をさせた。翌年、この書類を承諾の根拠として提示し、4軒に立ち退きを強制すると、補償の約束を反故にすぐに演習場へと変えてしまう。その後、米軍は約300名の武装兵とともに152軒に対し立ち退きを強要、反発する島民に対し暴行の上、13軒の家屋をブルドーザーで破壊、農地の焼き払いを進めた。琉球政府側へ陳情を行っていた阿波根も、留守中に自宅を破壊されている。突然焼け出された住民達は幕舎によるテント生活を強いられたが、住環境の悪さや食料不足により、皮膚病などが蔓延し、餓死者が出るほどの苦境に陥った。この頃、米軍から琉球政府側への報告において、事実と異なり島民に非があるような情報が多くあることに気付いた阿波根は、那覇でブローニー判の二眼レフカメラを購入した。後年出版された写真集『人間の住んでいる島』の扉に書かれているように、「農民自らの手によって撮影された記録」として、客観的な証拠を丁寧に残していくことになる。会場には土地接収の惨状とともに、過酷な環境の幕舎で逞しく生きる子供達の写真が並び、人間の生活を無視したこの不当な暴力を「なかったことにしない」という強い決意が、阿波根のレンズ越しのまなざしに感じられる。

会場風景
会場風景

会場の順路を進むと、陳情の様子が紐解かれていく。1955年、住む場所も生活も奪われた真謝地区の住民は琉球政府へ訴えるも埒が明かず、そのまま庁舎前の空き地に「陳情小屋」を設置し、住み込みで声を上げ続けた。演習地内で農作業を共同で行った農民32名の不当逮捕時には、家族の釈放を求める妻子も加わり、伊江島の窮状や訴えの内容が書かれた看板や旗、プラカードなどを効果的に使用することで徐々に注目を集めていった。米軍側への訴え方として、非暴力の抵抗と今でも語り継がれる理由の一つに、阿波根らが定めた「陳情規定」がある。ともすると主従関係に起因する反逆や暴動となりがちな訴えを、ときには戦略的な応酬も含め、落ち着いた人間同士の対等な話し合いへと導かせた。この規定は何度も練り直され、最終的には以下のように収斂されていく。

一、反米的にならないこと。
一、怒ったり悪口をいわないこと。
一、必要なこと以外にはみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと。
一、会談のときは必ず座ること。
一、集合し米軍に応対するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。
一、耳より上に手をあげないこと。(米軍はわれわれが手をあげると暴力をふるったといって写真を撮る。)
一、大きな声を出さず、静かに話す。
一、人道、道徳、宗教の精神と態度で折衝し、布令・布告など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること。
一、軍を恐れてはならない。
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
一、このお願いを通すための規定を最後まで守ること。


大戦以降不当な暴力が横行した時代において、侵略者を正そうとする自らの正義を胸に、非暴力により冷静に立ち向かう阿波根の姿勢がよく表れている。なお、阿波根は自身の発案だったとしても、これは最終的に全員で作ったものとして、この団体行動においても代表者を定めず「全員代表」という方針を貫いた。この方針が住民全員の自主性、そして結束を高めていったのであろう。今回の写真群には阿波根の姿もたびたび写っているが、この記録の重要性を全員が認識し、カメラも複数の者が操っていたことをよく表している。

演習で使われた1トン爆弾 1955-67年
演習で使われた1トン爆弾 1955-67年

那覇の「陳情小屋」での座り込みの訴えも空しく、成果がないと踏んだ真謝地区住民は、南部の糸満から最北端の辺戸岬まで沖縄本島を縦断する「乞食行進」を決行する。「乞食をするのは恥であるが、武力で土地を取り上げ、乞食させるのは、尚恥です」と書かれたプラカードとともに、言論統制もある米軍占領下、三線に合わせて歌いながら窮状を全島に知らしめた。61歳の農民、野里竹松が作った「陳情口説(くどぅち)」の一節を阿波根は書き留めている。

アメリカぬ花ん 真謝原ぬ花ん 土頼(たゆ)てぃ咲ちゃる 花ぬ清(ちゅ)らさ
貧乏やぬ庭ん 金持ぬ庭ん えらばずに咲ちゃる 花の美事(みぐとぅ)


実際に車を止め庭の花を眺めていた米兵を見て詠まれたこの琉歌は、自然の花にも頼られる土地の重要性、そして分け隔てなく咲く場所を選ばない花の平等を、時代を超え美しく伝えている。こうした行動は日本中の共感者を生んだ。阿波根の写真からは、北海道の炭鉱や東京の巣鴨拘置所などからの支援物資を受け取る様子、また伊江島の窮状を国連などに訴え「沖縄の太陽」と呼ばれた東京の高校生・黒田操子や、アメリカから支援に来たバベリー、リカード宣教師らの来訪の姿なども見受けられる。

会場風景
会場風景

会場の最後のスペースは、「人間の住んでいる島」と題して、これまでの抵抗記録写真とは一変し平和な島の日常が綴られている。デンマーク式農学校の設立が夢であった阿波根は、その資金調達の一手段として、伊江島南部の川平地区で丸に十字架を掲げた「マルジュー百貨店」を経営していた。元々物資が少なく高価であった離島で、平和運動の基礎には健全な生活環境が重要との考えから、まずは生活用品の充実や雇用の創出を掲げていたこの店は、伊江島のシンボルであるタッチュー(城山)が見える裏庭を開放し、子どもたちの憩いの場ともなっていた。そこに集まる島民の写真スタジオのような機能を持っていた島唯一の阿波根のカメラは、島民の日常や記念写真を多く残している。天井の高い会場の白壁スペースを埋め尽くす人々の屈託のない数多の笑顔を通じ、人間の尊厳、穏やかな生活を脅かす暴挙との対比が胸を打つ。

2人の子供 1955-67年
2人の子供 1955-67年

阿波根昌鴻は、その後1966年に60歳を超えて東京の中央労働学院(現・法政大学と合併)政経学科に入学、長年の夢であった進学を果たす。実体験による社会活動を学問により解き明かせる喜びに、毎日一番前の席に座りむさぼるように学習したという。そして、1984年に福祉団体「わびあいの里」、私設反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を設立し、2002年に101歳で逝去するまで平和を訴え続けた。

沖縄では今でも複雑な米軍基地問題が継続し、世界各地ではいまだ紛争、内戦が絶えることがない。「なかったことにしない」写真が訴える事実と歴史、そして阿波根昌鴻が残した非暴力の抵抗の姿勢は、残念ながら戦争がなくならないこの世界で知っておくべき、そして忘れてはならない記憶である。展覧会では、2024年4月20日に本展キュレーターの東京工芸大学准教授・小原真史氏と、沖縄を撮り続ける写真家比嘉豊光氏、そして伊江島の元小学校教諭・玉城睦子氏とのトークイベントも開催される。小原准教授は、阿波根昌鴻資料調査会と協働し大量のネガの高精細デジタル化を進め、今回貴重な写真が一堂に会する本土初の展覧会を企画、実現した。原爆の図 丸木美術館における丸木位里・俊(とし)夫妻の常設展と合わせて、反戦と平和の芸術と貴重な記録写真の数々に触れながら、人間らしく誠実に闘い続けた沖縄の人々、そして今なお続く沖縄と世界の現状に思いを巡らせたい。

関連情報
東松山市郊外の原爆の図 丸木美術館は、公共機関が限られるため、バスの時間等は事前に確認したい。車の場合は、近隣の川島町にある 遠山記念館 などの周遊もお勧めである。特別展「子の日図屏風と宮廷文化」も2024年5月19日までは開催しているほか、日興證券の創業者・遠山元一(1890-1972)が、幼い頃に没落した生家を再興した邸宅も公開されており、一見の価値がある。贅を尽くした広大な日本家屋は、建築好きにはたまらない細かな意匠や技術が楽しめる。

原爆の図 丸木美術館「阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々」
トークイベント「人間の住んでいる島」

開催日時:2024年4月20日(土)午後2時
出演:比嘉豊光(写真家)× 玉城睦子(伊江村立西小学校元教頭)
   × 小原真史 (本展キュレーター、東京工芸大学准教授)
参加費:無料(当日の入館券が必要です)
原爆の図 丸木美術館
原爆の図 丸木美術館
美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
原爆の図 丸木美術館|Maruki Gallery For The Hiroshima Panels
355-0076 埼玉県東松山市下唐子1401
開館時間:3月~11月 夏時間:9:00~17:00、12月~2月 冬時間:9:30~16:30
休館日:月曜日(祝日の場合は翌平日)、4月23日~5月6日は無休

澁谷政治 プロフィール

北海道札幌市出身。学部では北欧や北方圏文化を専攻し学芸員資格を取得。大学院では民族文化に関する研究で修士課程(観光学)を修了。北海道、サハリン(樺太)や沖縄など広く訪問し研究調査を行った。メディア芸術やデザイン等への関心のほか、国際協力に関連する仕事に携わっており、中央アジアや西アフリカなどの駐在経験を通じて、シルクロードやイスラム文化などにも関心を持つ。

参考文献:
阿波根昌鴻(1982)『写真記録 人間の住んでいる島』私家版
亀井淳(1999)『反戦と非暴力 阿波根昌鴻の闘い』高文研
テッサ・モーリス=スズキ編(2015)『ひとびとの精神史2 朝鮮の戦争1950年代』岩波書店
堀切リエ(2022)『阿波根昌鴻 土地と命を守り沖縄から平和を』あかね書房

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