砂漠の近未来都市・ドーハのアート体験。
初開催された「アート・バーゼル・カタール」
アートフェアから始まる、都市とアートの旅へ|アート・バーゼル・カタール【前編】

構成・文:藤野淑恵
バーゼル、ロンドン、ニューヨーク――世界の主要都市で開催されるアートフェアは、もはや一部の富裕層やコレクターだけの舞台ではない。フェア会場で世界的ギャラリーの最旬作品に触れ、同時期に開催される展覧会やサテライトフェアを巡ることで、一年でもっとも濃密な熱を帯びたアート体験が可能になる。アートフェアとアートウィークが重なるその瞬間こそ、世界のアートの現在地に出会うための最良のタイミングだ。

2月初旬、中東カタールの首都、ドーハで初開催されたアート・バーゼル・カタールを訪れた。東京発のフライトで11時間。一年で最も過ごしやすい季節を迎えたドーハのハマド国際空港に降り立つ。ヨーロッパへのフライトのためのトランジットで訪れた経験はあるが、滞在は今回が初めてだ。空港内のコミュニティーアート作品の数々に目の奪われながら、圧倒的多数のトランジット客と進路を別にバゲージクレームへと向かう。広大な空港もシャトルトレインでスムーズに移動できる。ドーハ市内中心部まではタクシーでわずか20分ほどのアクセスだ。広々と整備されたヤシの木の並ぶ道路から一望する奇抜な超高層ビル群の眺望は、砂漠の近未来都市そのもの。旅の目的はアート・バーゼル・カタール、そして同時期にアートウィークで賑わうドーハのミュージアムやギャラリーを巡ることにある。
- アートフェア開催情報
ART BASEL QATAR(アート・バーゼル・カタール)
会期:2026年2月5日(水)〜7日(金) プレビュー:2月3日(月)・4日(火)
会場:ムシェイレブ地区 M7 および ドーハ・デザイン地区
https://www.artbasel.com/qatar
アートはカタールの国家プロジェクト。アル=マヤッサ王女の推進力に世界が注目する
スイス・バーゼルで始まり、マイアミビーチ、香港、パリ・・・世界有数の開催地を擁するアートバーゼルが、中東に初めて進出する舞台として選んだカタールだ。近年、中東のアートシーンといえば、ルーヴルやグッゲンハイムなど著名な欧米の美術館と提携し、今年11月にはフリーズの初開催を控えるアブダビ、ディルイーヤ現代美術ビエンナーレを開催しサザビーズが拠点を設けたサウジアラビア、欧米のブルーチップ・ギャラリーが拠点を構え中東最大級のアートマーケットを誇るドバイなど、各地がそれぞれの立ち位置で活況を呈している。

一方、カタールは歳月をかけ国家戦略として文化・芸術への大規模な投資を続け、美術館やパブリックアートなど非営利の公共プログラムを着実に整備してきた。このプロジェクトを推進してきたのが、前首長の娘で現首長の妹であるカタール国立博物館会長、シェイカ=アル・マヤッサ・ビン・ハリーファ・アル=サーニー。国際的なアート界で最も影響力のある人物の一人として知られる存在だ。2月4日に開催されたトークイベントにはアル=マヤッサ王女が登壇。スイス出身のコレクターで文化起業家のマヤ・ホフマンと共に、アートに抱く志や持続的コミットメントの長期ビジョンについて語った。

フェアというより、美術館の企画展。キュレーション重視の新しいアートフェア
2月3日、プレビューを迎えたムシェイレブ地区のM7は、VIPや関係者の熱気が漲っていた。エントランスに連なる列はアートフェアでも見慣れた光景ではあるが、会場内の印象は他のアート・バーゼルの開催地と大きく異なる。カタールの宗教的・文化的規範に基づき、アートバーゼルの各会場でお馴染みのシャンパンのワゴンやグラスを片手に会場を歩くVIPの姿はない。ラウンジでシャンパンに代わって振る舞われたのは、ポットから注がれるスパイスの香り高いアラビック・コーヒーや、希少な品種のデーツ。これはアラブ社会における伝統的な歓待を象徴する作法だ。
展示会場の構成は見慣れたブース形式ではなく、仕切りのないオープンな空間で、美術館を彷彿とさせる展示風景が広がる。華やかなコマーシャル・フェアというよりもキュレーション重視の展覧会、という印象だ。他都市で数百のギャラリーが集うアート・バーゼルとは異なり、カタールではあえて87ギャラリーに絞られた構成が取られた。また、中東・北アフリカ・南アジア(MENASA)地域のアーティストが半数以上を含めるなど、地域性の高さにも特化。アーティストと出会い、作品と向き合う場所としてのアートフェアのあり方が提示された。

区切られたブースの中で著名アーティストのグループ展が開催される通常のフェアとの最大の違いは、出展した87のギャラリーがすべて一人のアーティストの作品を展示するという個展形式に限定されたこと。各ギャラリーがそれぞれのテーマで演出する従来のフェアとは異なり、芸術監督を務めたカタール在住のエジプト人アーティストのワエル・シャウキーが掲げた「Becoming(生成)」という一つのテーマで開催されたアート・バーゼル・カタールはフェアそのものが巨大な企画展の様相を呈した。
Athr Gallery(アサーギャラリー)

MENASAのギャラリーとアーティストの中で強烈な存在感を放っていたのは、サウジアラビアのジェッダに拠点を持つアサーギャラリーだ。同国の現代アートを牽引するこのギャラリーが展示したのは、メッカや宗教、都市開発をテーマに写真やインスタレーションを制作するアーメド・マーターの作品。メッカに押し寄せた膨大な数の群衆が、ひとつの巨大な塊のようにうねる写真作品は、磁力をもつかのように訪れた人々を引き寄せていた。
フィリップ・ガストン、クリスト・・・ 美術館クラスのマスターピースもフェア会場を彩る
メガギャラリーを始め、国際的に活動する主要ギャラリーもまた、それぞれの視点からアート・バーゼル・カタールのキュレーションに呼応した。それぞれの歴史的文脈を携えてドーハという場所にふさわしい作品を提示する姿勢が印象に残る。また、これまで国際的に正当に評価される機会が少なかったMENASA(中東・北アフリカ・南アジア)のアーティストの作品にも大きくフォーカスされていた。
Gagosian(ガゴシアン)

編集部撮影
ガゴシアンが紹介したのは、巨大な建造物や自然を布で包み込む「梱包」の手法で知られる現代美術家クリストの1950年代後半〜60年代初頭の初期の彫刻作品。中東地域と創造的な繋がりを持つクリストと妻ジャンヌ=クロードのプロジェクト「マスタバ(The Mastaba)」に関連するドローイングやコラージュも展示された。マスタバはアブダビの砂漠に41万個の石油ドラム缶を積み上げるという、彼らが生涯で唯一特定の場所のために構想し、没後も引き継がれている恒久的なプロジェクトだ。
Hauser & Wirth(ハウザー&ワース)

ハウザー&ワースによるフィリップ・ガストンの個展は、今回もっとも注目を集めた展示の一つ。2022年にメトロポリタン美術館に恒久的な展示スペースが設けられた今日最も重要視される作家だ。抽象から具象へと転じた晩年の代表作は、自己批評的な視線から社会の不安や暴力性を寓意的に描く。近年再評価が進むその絵画は、「Becoming(生成)」というテーマのもとに開催された本フェアの思想にも響きあう。美術館級の作品に足を止める来場者の姿は絶えなかった。
David Zwirner(デイヴィッド・ツヴィルナー)

デイヴィッド・ツヴィルナーは、中東地域の政治的・歴史的状況に焦点を当てたマルレーネ・
デュマのシリーズ「Against the Wall」(2009–2010年)から作品を紹介した。パレスチナとイスラエルを隔てる壁の前を歩く少女を描いた《風景の中の人物》は、とりわけ強い印象を残す。南アフリカで生まれ育ったデュマにとって、領土を隔てる「壁」というモチーフはアパルトヘイトの記憶と接続するものなのだろう。
PERROTIN(ペロタン)

ブルーグレーの壁を巡らせた空間でペロタンが開催したのは、「アル-キミヤ:変容の芸術」と題されたアリ・バニサドルの個展。イランのテヘランに生まれ、現在はニューヨーク・ブルックリン在住の作家だ。一見抽象作品のように見える画面に近づくと、うごめく生物の存在や古代的な気配が立ち上がる。夜の森のような静謐さに満ちた空間は、観る者の意識をゆるやかに揺さぶった。
砂漠の都市に生まれた“歩ける日陰”。ヒューマンスケールなムシェイレブ地区

会場の外に目を向けてみよう。「M7」と「ドーハ・デザイン・ディストリクト(DDD)」の2つの会場をゆるやかに繋ぐのは、中東最大級の開閉式屋根付き公共広場、「バラハ・ムシェイレブ」。日中は直射日光を遮り、日が暮れると温かみのある光でライトアップされるこの広場は、昼夜を問わず心地よいリビングルームのような場所だ。広場の中心やDDDへとつながる回廊に展示されたアート作品を楽しみながら、ゲストたちは広場を回遊した。この広場を含め、ムシェイレブ・ダウンタウン・ドーハに点在する文化施設や公共スペースは、インスタレーションやパフォーマンスなどのユニークなアート・バーゼル・カタール特別プロジェクトの舞台となった。この特別プロジェクトもまた、芸術監督のシャウキーのキュレーションによるものだ。

ゲストたちは街に開かれた大型インスタレーションを鑑賞しながら、2つのメイン会場を行き交った。広場の中央は特別プログラムのひとつとして展示されたスマイヤ・ヴァリー作の大規模インスタレーション。マンダリン・オリエンタル、ハロッズ、フォションなどのラグジュアリーホテルやカフェ、カタールの伝統料理を現代的に再解釈したレストランなどが広場を囲むように軒を並べる。バラハ・ムシェイレブを一望するマンダリンオリエンタル・ドーハのバラハ・ラウンジのテラス席は、民族衣装のトーブやアバヤを纏ったアラブのコレクターたちが集う現代のメジュリスの様相を呈していた。
アートとデザインが交差する ダウンタウン・ドーハ
アートバーゼルの舞台となったダウンタウン・ドーハは、カタールにおけるクリエイティブ産業のハブとして構想された新しい文化拠点。ギャラリー、デザインスタジオ、ショールーム、イベントスペースが集積する。M7とDDDの2つを会場とすることで、アートとデザイン、商業と文化が交差するドーハのカルチャーシーンを感じることができた。B&BやMolteniなど世界的なインテリアブランドのショールームが軒をならべる他、アラブ世界の建築文化や自然環境に特化した書店ギャラリー「アトラスブックストア(Atlas Bookstore)」などのユニークな施設を覗く楽しみもある。

Courtesy of Art Basel
ムシェイレブ地区を中心に展開された特別プロジェクトは、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス、映像など多彩な表現で都市空間へと広がった。バラハ・ムシェイレブの広場に静かに佇んでいたのは、南アフリカ出身のスマイヤ・ヴァリーによる大型インスタレーション。コルドバのメスキータ、ガザのオマリ・グランド・モスク、ベイルートの殉教者広場といったイスラム世界の歴史的公共空間を参照しながら、過去の記憶と未来の都市像を重ね合わせる試みだ。

Courtesy of Art Basel
一方、ドーハ・デザイン・ディストリクトへと続く回廊の天井を彩ったのは、メキシコシティ生まれのアブラハム・クルズヴィエイガス。長年展開してきたシリーズを再構築し、地元で収集されたリサイクル素材をピンクと緑に染め上げ、軽やかに吊り下げた。揺らぐ色彩と即興的な構造は、「私たちが絶えず変化し続ける存在である」という作家の思想を、空間そのものに刻み込んでいた。

フェアを越えて、都市へ。 建築と美術館、パブリックアートが編むドーハの文化地図
アート・バーゼル・カタールの会場だけでは、ドーハのダイナミックなアート体験を語り尽くすことはできない。ドーハ湾に浮かぶイスラム美術館(Museum of Islamic Art)は、ルーヴルのガラスのピラミッドで知られる建築家I.M.ペイが手がけた晩年の代表作。イスラム芸術の精華を伝える舞台でもある。VIPプレビューデー前夜、この美術館を舞台にジェニー・ホルツァーの新作《SONG》が世界初公開された。パレスチナの詩人マフムード・ダルウィーシュ、そしてUAE出身の詩人・映画監督ヌジューム・アルガネムの詩が、アラビア語と英語でファサードと中庭に投影される。テキストは光となり、夜の建築の輪郭をなぞる。フェア期間中、作品は毎晩上演され、ドーハの夜を輝かせた。

© 2026 by the Mahmoud Darwish Foundation. © 2026 Jenny Holzer, member Artists Rights Society (ARS), NY Photo Courtesy by Art Basel
ドーハでのアート体験はアート・バーゼル・カタールにとどまらない。初開催されたフェアを起点に、建築、美術館、博物館を巡ることでドーハという都市のアートの輪郭がより鮮明に立ち上がってくることを実感した今回の旅。空港に降り立った瞬間から始まったアート体験は、フェアの会場を越え、都市そのものへと広がっていく。
後編では、イスラム美術館、カタール国立博物館、マハトフ・アラブ近代美術館、ムシェイレブ博物館など、ドーハ滞在を深く記憶に刻んだアートスポットを辿ってみたい。