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版画が支えた写真の発展と新たな表現の黎明期
「版画×写真 1839-1900」

東京・町田市立国際版画美術館にて2022年12月11日まで開催

展覧会レポート

ギュスターヴ・ル・グレイ《海景》、1856-59年、鶏卵紙、東京都写真美術館
ギュスターヴ・ル・グレイ《海景》、1856-59年、鶏卵紙、東京都写真美術館

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構成・文 澁谷政治

誰もが気軽にスマートフォンやデジタルカメラで写真を撮る現代。しかし、19世紀初頭の写真という新たな表現が世界中に広がっていく過程には、従来の版画や絵画との関係性、そして「写真は芸術か?」といった懐疑的な視点など、多くの議論を呼び、技術的な変遷を辿った時代があった。何世紀も前から続く版画の技術が支えた写真の発展の歴史をひもとく企画展「版画×写真 1839-1900」が、東京・町田市の緑豊かな芹ヶ谷公園内にある町田市立国際版画美術館にて、2022年10月8日から12月11日まで開催されている。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
「版画×写真 ― 1839-1900」
開催美術館:町田市立国際版画美術館
開催期間:2022年10月8日(土)~12月11日(日)

会場風景。右手前はダゲレオタイプ写真機
会場風景。右手前はダゲレオタイプ写真機
マシュー・B・ブレイディ・スタジオ《二人の子ども》、1855年頃、ダゲレオタイプ、横浜市民ギャラリーあざみ野
マシュー・B・ブレイディ・スタジオ《二人の子ども》、1855年頃、ダゲレオタイプ、横浜市民ギャラリーあざみ野

会場は三部構成となっている。第1部「写真の登場と展開」で示される歴史は、本展覧会のタイトルにもあるとおり、1839年まで遡る。フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre 1787-1851)が発表した金属板に画像を表出させる技術、ダゲレオタイプが近代の写真の嚆矢とされる。それまでも18世紀末にイギリスのトマス・ウェッジウッドや、フランスのニセフォール・ニエプスらが光学像の画像化に成功はしていた。しかし、その撮影の露光時間は8時間以上あり、木が風に揺れるだけで輪郭が捉えられなかったという。そのため、ダゲールは共同研究をしていたニエプスの没後も改良を重ね、露光時間を数十分にまで短縮し、実用に耐えうる写真技術として、自身の名を冠したダゲレオタイプを完成させた。科学者でもあった代議員議員フランソワ・アラゴの提案によりフランス政府が特許権を買い上げ、広くこの技術が知られることとなり、翌年までに外国語も含む32種もの教本が作成された。その後の改良で露光時間は数分程度にまでなり、銀板に映された写真技術はフランス国内外へと急速に普及していった。

ノエル・ぺマル・ルルブール『ダゲリアンたちの世界旅行』より、1840-43年、銅版画、個人蔵
ノエル・ぺマル・ルルブール『ダゲリアンたちの世界旅行』より、1840-43年、銅版画、個人蔵

ダゲレオタイプは現代のデジタルカメラの解像度と遜色のないくらいの画質で、当時の社会現象が「ダゲレオタイプ狂」という風刺画として残されているほど、この「写真」の出現は熱狂を持って迎えられた。しかし、ダゲレオタイプは画像が写し出された銀板そのものを鑑賞するため、複製することができなかった。そこで、ダゲレオタイプで撮影された画像は、版画技術を以て複製されるようになっていく。ノエル・ペマル・ルルブール(Noel Paymal Lerebours 1793-1860)がまとめた『ダゲリアンたちの世界旅行』は、ダゲレオタイプを基に銅版画として複製、出版されている。展示された作品を遠目で見ると、写真と錯覚するような感覚に陥る。写真を紙に転写できない時代、版画がその代替手段となっていたことがよく分かる。

ナダール氏のスタジオでの日本遣欧使節 1862年『モンド・イリュストレ』紙掲載 木口木版 個人蔵 
ナダール氏のスタジオでの日本遣欧使節 1862年『モンド・イリュストレ』紙掲載 木口木版 個人蔵 

この複製のできないダゲレオタイプを進化させたのが、現代のネガポジ方式につながるカロタイプである。イギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot 1800-1877)は、1841年にネガ画像からもう一枚の紙に感光させることで何枚でも複製できる写真技術をカロタイプとして発表した。紙の繊維が映ることからダゲレオタイプよりも画質は落ちたが、1850年にはルイ・デジレ・ブランカール=エヴラール(Louis Désiré Blanquart-Evrard 1802-1872)が、表面に卵白を塗った鶏卵紙を発表。改良されたコロディオン湿板方式によるガラスネガとの併用により、紙でも十分耐えうる画像の再現が可能になる。その手軽さから、銀板であったダゲレオタイプの写真に代わり、カロタイプによる紙の写真が主流となっていく。しかし、当時はまだ版画も広く一般的であり、写真との共用は続いた。1862年に江戸幕府はヨーロッパ諸国へ遣欧使節団を派遣したが、このときパリの写真師ナダールが一行を撮影している。本展覧会でもこの写真に基づき描かれた人物の版画が展示されているが、両者を比較すると、版画は構図や背景が加工されてイメージがより鮮明に印象付けられ、当時の写真技術の不備を補完する版画の優位性が見て取れる。

カミーユ・コロー《乙女と死》、1854年、クリシェ・ヴェール、町田市立国際版画美術館
カミーユ・コロー《乙女と死》、1854年、クリシェ・ヴェール、町田市立国際版画美術館

第2部「実用と芸術をめぐる争い」では、写真の出現による芸術界への影響が語られる。ガラス板によるネガを用いて紙への焼き付けを行う写真技法をクリシェ・ヴェールと言うが、このガラス板に直接描画を行い、写真と同様に紙に焼き付けた作品も出現する。フランスの画家カミーユ・コロー(J. B. Camille Corot 1796-1875)のクリシェ・ヴェール作品は、一見エッチングのように見えるが、印画紙に凹凸はなく写真の質感である。当時の写真家と画家の協働により作成されたこれらの作品は、まさにこれまでの版画の歴史が、写真という新たな表現手法に出会った好奇心と戸惑いを象徴しているように感じられる。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《写真家セスコー》、1896年、リトグラフ、国立西洋美術館
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《写真家セスコー》、1896年、リトグラフ、国立西洋美術館

会場を進むと、「写真は芸術か?」との問い掛けにふと立ち止まる。1850年、フランスのサロン(官展)に出品された風景写真と絵画の複製写真は、当初リトグラフ部門に受け入れられるものの、最終的に芸術作品とは認められず、展示取りやめとなっている。その後、1859年にはフランス写真協会展がサロンと同時開催されることとなり、真っ向から芸術作品と認められたとは言えないものの、写真作品の展示の場が広がっていく。同時に、一見写真のように見えるアクアチント技法を取り入れた版画や、絵画の主題や表現を意識したピクトリアリズムと呼ばれる写真作品なども出現し、写真はこれまでの表現手法と相互に影響を与えながら発展していった。ムーラン・ルージュの作品で知られる画家トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec 1864-1901)は、親友の写真家セスコーのスタジオのポスターを作成している。写真スタジオのポスターが版画であることがこの時代を表しているようにも感じるが、一方でセスコーがロートレックの全身像も撮影している。機器を通して映し出される画像は、それまで人の手によって描かれた絵画や版画とは異なる新たな表現として、その芸術性における議論を呼びながら近代の日常生活に浸透していった。

会場写真。19世紀の写真館における撮影用の椅子(左)と視線目標(右)
会場写真。19世紀の写真館における撮影用の椅子(左)と視線目標(右)

写真の芸術性については、創作ではなく事実の記録という側面も大きく議論を呼んでいた。第3部では「競い合う写真と版画」と題し、記録の視点から版画と写真の歴史を探る。ダゲレオタイプが急速に普及したのは、特に欧米都市の肖像写真館の存在が大きい。それまで上流階級など限られた人々が肖像画を依頼し制作するよりもはるかに手軽に、家族など身近な人物の姿を美しい銀板に映し出すこと、そしていつまでも手元に置いておけること。これらが多くの人々に熱狂的に受け入れられていったであろう状況は容易に想像できる。1850年代のニューヨークでは約100軒の写真館があったと言われ、競合による安価な写真も出現し流行に拍車をかけた。また、1852年には紙ネガの技術のよる世界初の写真集も出版された。これはフランスの写真家マクシム・デュ・カン(Maxime du Camp 1822-1894)が初期の写真技術を学び中東旅行で撮りためたものである。自分が赴くことのできない遥か遠くの外国の風景が、絵画ではなく機械によって克明に切り取られ共有されることは、多くの人々を魅了した。そして、もう一つの版画の役目であった事象や事件などの報道。1871年、フランス初の労働者政権パリ・コミューン樹立による内乱で破壊されたパリ市役所は、版画とともに多くの写真も残されている。展示により両者を比較すると、人の手による版画はフィクションとも感じられる物語性を感じられるのに対し、写真は機械を通し淡々と事実だけを伝えている表現の違いが明らかである。

レオン・ジャン=バティスト・サバティエ『パリとその廃墟』より、1873年、リトグラフ、大佛次郎記念館
レオン・ジャン=バティスト・サバティエ『パリとその廃墟』より、1873年、リトグラフ、大佛次郎記念館
シャルル・マルヴィル《パリ市庁舎(コミューン後)》、1871年、鶏卵紙、東京都写真美術館
シャルル・マルヴィル《パリ市庁舎(コミューン後)》、1871年、鶏卵紙、東京都写真美術館

今回の展示は、版画の技術が写真の発展を支えていた19世紀末までをテーマとしている。版画というツールを通じて、身近な「写真」の知られざる黎明期を辿る視点が面白い。一方で、絵画と同じく人間が創作するが複製もできる、という版画の特性を改めて感じる機会でもある。今や銀板でも鶏卵紙でもなく、デジタルで見る機会が圧倒的に多くなっている写真の現状を思うと、わずか200年弱の間の技術の進歩に驚かされる。同時に、インスタグラムなど個人が簡単に写真を世界中に共有できる現代だからこそ、本来我々が写真に求めているもの、そして芸術表現とは何かについて改めて考えさせられる。版画好きも写真好きも楽しめるこの企画展「版画×写真 1839-1900」。是非版画が語る写真の歴史に耳を傾けるとともに、これからの版画、写真の未来についても想像を巡らせる機会として楽しんでほしい。

澁谷政治 プロフィール

北海道札幌市出身。学部では北方圏文化を専攻し学芸員資格を取得。大学院では北方民族文化に関する研究で修士課程(観光学)を修了。建築デザインや写真等への関心のほか、国際協力関連業務による中央アジアや西アフリカなどの駐在経験を通じて、シルクロードやイスラム文化などにも関心を持つ。

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